三村山極楽寺跡遺跡群(茨城県つくば市)

三村山極楽寺跡 忍性が住んだ「坂東の律院の根本」たる寺院跡

宝篋山 極楽寺コース

小田城主郭の北東、宝篋山のふもとに極楽寺という寺があり鎌倉~室町時代まで大寺院として栄えていました。

建長4年(1252)年から10年間、奈良西大寺の僧忍性が関東での律宗布教の足掛かりとして止住し、「坂東の律院の根本として本寺」と謳われた律院寺院でした。

「常州三村山ハ坂東ノ律院ノ根本トシテ本寺也。故良観上人結界シ、コトニ殺生禁断、昔ヨリモ、キビシク侍シ事、東條卜云所ノ狐ネ共具シテ、聞及テ来ルヨシ、人二託シテカケリ」

無住「雑談集」

三村山極楽寺跡遺跡群がある宝篋山は標高461メートル、登りやすいということで登山者にも人気があるそうです。

現在登山コースは6コースあり、その中のひとつに極楽寺コースがあります。

忍性記念 極楽寺公園 (極楽寺跡)

忍性記念 極楽寺公園 看板

極楽寺コースに沿って歩いていくと極楽寺跡に造られた忍性記念 極楽寺公園に着きます。

この公園は土地所有者や宝篋山整備隊、登山者などの協力によって整備され2014年に完成したそうです。

看板の他ベンチや東屋などがありました。

石造五輪塔

五輪塔 1984(昭和59)年5月24日つくば市(当時筑波町)指定文化財
小田天庵公先祖代々の墓 石碑
石造五輪塔 説明板

公園を通り過ぎ、しばらく歩くと極楽寺奥の院にあたるとされる場所に巨大な五輪塔があります。

隣の石碑には 「南無妙法蓮華経 小田天庵公先祖代々の墓」とありますが、現在この五輪塔は忍性のあとに三村山長老となった連順房頼玄の墓だと推定されているそうです。

1993年(平成5年)の調査では石塔下からは瓦、内部からは蔵骨器、隙間には火葬骨を含む土が詰められており、ほかにも様々な納入品がみつかったそうです。それらの出土品や石塔の制作年代、規模などから頼玄の墓塔だと推定されたようです。

小田城と三村山極楽寺と北畠親房

ところで最近読んだ本に北畠親房がなぜ小田城を常陸国での拠点として選んだのか、面白い説が載っていました。

北畠親房 大日本は神国なり (ミネルヴァ日本評伝選)岡野友彦

従来は城主小田治久が南朝方の武将だったことが注目されてましたが、この三村山極楽寺の律僧たちの存在をあげていました。

北畠親房が出帆した伊勢にも神護山弘正寺という伊勢を代表する律宗寺院があったそうです。

中世前期において港湾都市は律宗寺院によってほとんど掌握されていたそうで、親房は三村山極楽寺の律僧たちを頼って小田城に入ったと考えるのが自然ではないだろうか、と。

また極楽寺の位置は小田城の主郭部跡から北東1キロほどのところにあり、両者は一体のものと考えてよい。

実際、小田城主郭部跡にほど近いつくば市小田には、建長5年(1253)9月11日の日付と「三村山極楽寺不殺生界」なる銘をもつ石碑が建てられており、小田の地が三村山の一部であったことを明確に物語っている、といったことが書かれていました。

雑記

新型コロナウィルスのため、緊急事態宣言がでてから久々の史跡でした。

宝篋山今回は五輪塔で引き返しましたが、山頂には山の名前の由来となった関東最古とされる宝篋印塔や2018年に建立されたばかりの忍性銅像など見所がたくさんあるようです。

しかしながら極楽寺コース、草の生命力が凄くて登る気力が出ませんでした。

次は涼しい季節にでも再チャレンジしたいです。

しかし登山者はどんどん降りてくるので凄いな、と。

降りてくる人とばかりすれ違ったのは早い時間に登る人が多いからでしょうか。

そしてこの宝篋山、1341年(暦応4年)6月15日には宝篋山山頂を高師冬が奪い軍の陣を敷きました。

小田城は攻められ、落城はしなかったものの最終的には懐柔により小田治久は足利方に転じ、城内に高師冬を引き入れました。これによって北畠親房は関城へと移ります。

実際にこんなにほぼ目の前に陣を敷かれたら物凄い圧力だし、そうなっちゃうのも仕方ないな、と思いました。

南北朝時代,史跡,鎌倉時代

Posted by sata04