二体地蔵塚(群馬県太田市)

二体地蔵塚

1333(元弘3)年、鎌倉幕府は河内で挙兵した楠木正成鎮圧のため大軍を動員していました。その軍費を賄うため、臨時課税の「有徳銭」の徴収に踏み切りました。世良田には黒沼彦四郎入道と紀出雲介親連が徴収に訪れましたが、新田義貞は二人を拘束して黒沼は斬首、さらし首にしました。紀出雲介親連は新田氏の重臣船田義昌の同族紀氏であると船田の嘆願で助命されました。

このことがきっかけで鎌倉幕府から新田義貞追討の命がでて、義貞は生品神社で挙兵します。

黒沼彦四郎入道梟首遺跡
二体地蔵

この二体の地蔵は古墳時代後期の円墳の上にあります。世良田村絵図によると、「磔場」とされ中世以来刑場となっていたそうです。

二体地蔵塚説明板

二体地蔵塚説明板より抜粋

この塚について次のような伝説がある。昔、この塚の辺で毎夜人の争う異様な声が聞こえてくるので、村人は恐れをなし、石地蔵を建立して供養をしたところ、その後怪しい声は止んだという。もとは一体であったが、後に普門寺にあった一体の地蔵を映し二体とした。その後、二体地蔵と呼ぶようになったのである。

昭和五十四年三月

新たな供養のための五輪塔

五輪塔建立記によると「黒沼」という同姓の縁者の方が平成27年に建立されたそうです。

五輪塔

南北朝時代,史跡

Posted by sata04