蒙古塚(福岡県福岡市)
蒙古塚(蒙古軍供養塔)元寇古戦場跡
文永11年(1274)、世にいう文永の役(第一次元寇)によって壱岐・対馬・博多が攻められた際、志賀島に元軍の舟が座礁し、投降した兵を生け捕りにして首を刎ねました。その数120と伝わっています。
その時の処刑場がこの辺りで、古くは首切塚と呼ばれていたそうです。しかのしま資料館での解説では長い間島民も恐れて近付かなかったとか。
昭和2年(1927)、日蓮宗の僧 高鍋日統(たかなべにっとう)の提唱により翌年供養塚が建てられました。かつては北側の丘陵上にあったそうですが、平成17年の福岡県西方沖地震により倒壊。平成19年9月8日に新塚を南側の現在地に再興したそうです。


張作霖による讃文

しかのしま資料館で張作霖による讃文の存在を知り、しかしこの昭和3年3月の除幕式の3カ月後には関東軍によって殺されるんだよな、と何とも言えない気持ちになりました。
さらに資料館にあった展示資料の昔の新聞の投書?で、張作霖による讃文プレートが戦前に外されており、再び掛けたいがその資金もない、どうにかしたい、といった内容だったのでその後どうなったのだろうなーと思いながらこの蒙古塚に来たらあっさりとプレートを発見したので驚きました。このプレートはオリジナルのものなのでしょうか……。
大日本志賀島蒙古軍供養塔讃 卓哉大慈氏法身遍塵界普矚四天下作一家族視 中華民国東三省保安總司令張作霖書 |
下の部分には訳文の他、
「日統曰く此の(~中略~)猶ほ、張将軍の右の散文は供養塔と共に別個の碑を建立して刻入する事となるべし。目下その方法講究中に属す。(大亜細亜人第三百十四号)」とあります。
旧蒙古塚供養塔

こちらが旧蒙古塚供養塔
供養塔中央に「南無妙法蓮華経」、その下に「蒙古軍供養塔」とあります。
「蒙古軍供養塔」の揮毫は当時の田中義一首相
左右の「願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成仏道」は東郷平八郎の揮毫だそう。
ちなみに田中義一は張作霖爆殺事件によって内閣総辞職、その3か月後に死去しています。