源頼朝上陸地(千葉県安房郡)

石碑と看板
石碑
看板

千葉県指定史跡 源頼朝上陸地

昭和10年3月26日指定
千葉県鋸南町竜島165-1

治承4(1180)8月、伊豆で挙兵した源頼朝は、23日、平家方の大庭景親勢との石橋山の戦いに破れ、真鶴より海路小舟で脱出し、安房国へ向かいました。
「吾妻鏡」によれば、「29日、武衛(頼朝)、(土肥)実平を相具し、扁舟に棹さし安房国平北郡猟島に着かしめ給う。北条殿以下人々これを拝迎す」とあり、上陸地点の猟島が現在の鋸南町竜島とされています。頼朝はここで先着の北条時政、三浦義澄らと合流し、再起を図りました。当時房総には、下総の千葉常胤、上総の上総広常、安房の安西景益、丸信俊ら源氏恩顧の豪族が多く、また内房沿岸は対岸三浦半島の三浦氏の勢力範囲でもあり、頼朝が房総での再起を選んだ理由と考えられています。

房総一の兵力を誇っていた上総広常のもとへ向かうべく、外房の長狭(鴨川市)へ進んだ頼朝一行は、9月3日、平家に味方する地元の豪族長狭常伴の襲撃を一戦場で撃破。ひとまず安西景益の館(南房総市池ノ内)へ入り、各地の豪族へ使者や書状を送り味方を募り、情勢を見極めます。その間、洲崎神社(館山市)、丸御厨(南房総市円山)などへ足を運び、13日、安房を新発して兵力を加えつつ房総を北上、鎌倉へと入りました。東国の豪族たちを糾合し、平家を滅ぼし、鎌倉幕府という武家政権を樹立した源頼朝の再起の一歩はここから始まったのです。

鋸南町教育委員会

看板より
石碑後ろの海

写真左に見えている島は傾城(けいせい)島。みさご島とも呼ばれるそうです。

今は無人島で、日本武尊を守るために海に身を投げた弟橘姫のなきがらが流れ着いた伝説があるそうです。

里人がこの島に葬り、「みささぎ島」またその操をたたえて「操島」と称したが、いつの間にかなまって「みさご島」とよばれるようになったそうです。

時、有從王之妾曰弟橘媛、穗積氏忍山宿禰之女也、啓王曰「今風起浪泌、王船欲沒、是必海神心也。願賤妾之身、贖王之命而入海。」言訖乃披瀾入之。暴風卽止、船得著岸。故時人號其海、曰馳水也。

時に王に従ひまつる妾あり。弟橘媛と曰す。穂積氏、忍山の宿禰の女なり。王に啓して曰さく、「今風起き浪泌くして王船没みなむとす。是れ、必ず海神の心也。願くは妾の身を以て王の命贖ひて、海に入らむ」と。言ひをはりて乃ち瀾を披けて入りぬ。暴風、即ち止みて、王船岸に著くことを得たり。故れ時人、その海を号けて、馳水と曰ふ。

日本書紀 巻第7

史跡,鎌倉時代

Posted by sata04