新田義貞銅像(群馬県太田市生品神社)

再建された新田義貞銅像

新田義貞が挙兵したとして知られる生品神社境内の銅像が、2010年に盗難被害に遭いました。その後2012年に生品神社の駐車場に新しく銅像が建立されました。盗難防止のためのライトアップも行われているそうです。

当時の新聞記事などによると、地元住民で再建委員会を結成して約1700万円を集め、製作は義貞の弟、脇屋義助の子孫にあたる千葉県野田市の彫刻家脇谷幸正さんだそうです。脇屋さんは肖像画などの資料を調べ、1年かけて像を制作されたそうです。

銅像は高さ約1.8メートル、重さ310キロのブロンズ製で、盗難に遭った像(高さ0.8メートル)の2倍強の大きさ。

現在の境内には以前の銅像の台座のみ残っています。生品神社の訪問記はこちら

新田義貞銅像
新田義貞銅像

制作した脇屋さんは「新田のDNAを意識しながら、古武士のいかつい表情ではなく、源氏の貴公子、総大将としての姿を表現した」そうです。 (平成24年4月30日 上毛新聞より)

銅像背面解説文

銅像背面の解説文

 新田義貞公は源氏の直系であり郷土の生んだ武将である。元弘三年(一三三三)五月八日卯刻、
生品明神の社前に義旗を挙げ、各地の源氏の軍勢を糾合して鎌倉に侵攻し、幕府軍と激闘の末
同月二十二日執権北条高時の鎌倉幕府を滅ぼした。
 これにより建武の新政が成り、その功績によって後醍醐天皇から越後・播磨・上野の国司や
武者所頭人等に任ぜられ、一躍中央政界に躍り出た。
 その後、南北朝の戦乱となり義貞公は南朝方の総大将として各地に転戦した。
延元元年(一三三六)、比叡山に逃れた後醍醐天皇は、恒良親王、尊良親王と義貞公を越前に
下向させ再起を図った。越前に下った義貞公は、足利軍の猛攻を受けながらも越前の国府を攻
略して一時越前平野を制圧したが南風競わず、延元三年(一三三八)閏七月二日、燈明寺畷に
て斯波高経の軍勢と遭遇し壮烈な最期を遂げた。御年三十八歳であったという。
 この銅像は義貞公が鎌倉侵攻の折り、稲村ケ崎で海岸沿いの道をあけようと、龍神に干潮を
祈って黄金の太刀を海に投ずる姿で、これを同じ姿の銅像(高さ八十センチメートル)が境内
に設置されていたが、平成二十二年二月盗難に遭った。像の失われた現状を見た市民から再建の
声が起こり「新田義貞公銅像再建委員会」が組織され募金を呼びかけたところ、平成二十三年三
月の東日本大震災と重なる厳しい状況の中にあったが、多くの人々の協力を得て再建するこ
とができた。
 この像の制作者は、千葉県在住の彫刻家脇屋幸正氏で、義貞公の弟脇屋義助公の二十四代目の
子孫である。

平成二十四年五月 新田義貞公銅像再建委員会

ちょっとだけ蛇足

上の説明文で「執権北条高時の鎌倉幕府」と書かれていますが、実は高時は最後の執権ではありません。高時も執権経験者ではありますが、義貞の鎌倉攻めの時の執権は北条守時。足利尊氏の妻赤橋流北条登子の兄にあたります。もしこの文脈で使いたいなら執権ではなく得宗北条高時とした方が無難かな、と思います。そもそも鎌倉幕府の前に「執権北条高時の」も必要かな?と思いますが。太平記のせいか高時は悪の親玉扱いされることが多いですね。

南北朝時代,史跡,銅像

Posted by sata04