尊良親王墓所(京都市左京区)

尊良親王 墓所

尊良親王墓所

尊良親王(たかよししんのう/たかながしんのう)は後醍醐天皇の一宮と考えられ、元弘の乱では後醍醐天皇とともに笠置山にて挙兵し元弘2年3月土佐へと流されました。

しかし翌年の元弘3年3月、配流先から肥前国彼杵郡(そのぎぐん)へと逃れ、鎮西探題滅亡の翌日元弘3年5月26日には大宰府へと入っています。おそらく鎮西探題攻めに加わっていたのではないかと考えられています。その後8月には京へと戻りました。

その後延元元年10月、尊良親王は皇太子恒良親王とともに、洞院実世や新田義貞らと北陸へと向かいました。

翌延元2年3月、金ケ崎城陥落のときに新田義貞の長男義顕とともに自害。

尊良親王の首は禅林寺長老の夢窓疎石のもとへ送られ、葬礼が行われたそうです。

現在の墓所は禅林寺(永観堂)の近くにあります。

一方恒良親王は捕らえられ、都へと戻されました。

宮内庁の看板

尊良親王の最期

太平記巻18 金崎城落事 より

新田越後守義顕は、一宮の御前に参て、「合戦の様今は是までと覚へ候。我等無力弓箭の名を惜む家にて候間、自害仕らんずるにて候。上様の御事は、縦敵の中へ御出候共、失ひ進するまでの事はよも候はじ。只加様にて御座有べしとこそ存候へ。」と被申ければ、一宮何よりも御快気に打笑せ給て、「主上帝都へ還幸成し時、以我元首将とし、以汝令為股肱臣。夫無股肱元首持事を得んや。されば吾命を白刃の上に縮めて、怨を黄泉の下に酬はんと思也。抑自害をば如何様にしたるがよき物ぞ。」と被仰ければ、義顕感涙を押へて、「加様に仕る者にて候。」と申もはてず、刀を抜て逆手に取直し、左の脇に突立て、右の小脇のあばら骨二三枚懸て掻破り、其刀を抜て宮の御前に差置て、うつぶしに成てぞ死にける。一宮軈て其刀を被召御覧ずるに、柄口に血余りすべりければ、御衣の袖にて刀の柄をきりきりと押巻せ給て、如雪なる御膚を顕し、御心の辺に突立、義顕が枕の上に伏させ給ふ。

ーなんちゃって現代語訳ー

義顕が尊良親王の御前に参って、「合戦はもはやこれまでかと。我ら弓矢の家に生まれたからには無念ですが自害をしますが、上様はたとへ敵の前に行っても命を失われることはないでしょう。ここにいてください」と申せば、尊良親王は笑い飛ばされて、「主上が都に還幸されたとき、主上は私を大将とされ汝を股肱の臣とされた。臣下を無くした大将などない。だから私はここで命を白刃で絶って怨みを黄泉の国で晴らそうと思う。ところで自害とはどうしたらよいものか?」と仰せられれば、義顕は涙を押さえて「このようにするのです」と申して……(以下メンタルにくるので略、すみません)

参考資料

皇子たちの南北朝―後醍醐天皇の分身 (中公文庫)

 

南北朝時代,史跡

Posted by sata04