岡田武松邸跡

柳田国男記念公苑に行った後、千葉県我孫子市にある岡田武松邸跡に行きました。
(柳田国男記念公苑のブログ記事はこちら)

そもそも岡田武松について知らなかったのですが、柳田国男記念公苑でもらった「ぷらっと!ちばらき」というリーフレットに我孫子・印西・利根マップがあり、利根川を中心に近隣の寺社や史跡、食事処などが載っていました。

そこに岡田武松邸跡というものがあり、連れがここに行きたい!というので行ってきました。
「誰?なにした人?」と聞いたら「気象大学を作った人」と言われました。

とりあえず地図を見ながら向かいましたが、たどり着きません。
どうやらリーフレットも古かったらしく、地図上の周辺の店なども全くありません。
ならばと「岡田武松邸」でGoogle Map検索しても、まさかの検出ゼロ。
困ったなーと思いながら付近を散策した結果、バス停の横に看板を発見!

ようやく見つけけれてホッとしました。

看板の「日本近代気象学の父」との書き出しに気象学のすごい人なんだなあと。
道を探しながら「岡田武松」でブラウザ検索した時にサジェストに日露戦争と出たので、日露戦争関係者なのかな?と思っていたので看板に何も触れられていなかったのであれ?と不思議に思いました。

モミジの路地
旧岡田邸の樹木を移植したそう

保存樹木
岡田武松邸あとに建てられている「ふさの風近隣センター」のシンボルツリーとしてクスノキやケヤキが保存されています。

せっかくなので「ふさの風近隣センター」にもお邪魔して、何か岡田武松関連のパンフレット等ないか職員さんに尋ねたところ、詳しい人がいるから呼んでくるとおっしゃってなんと岡田博士研究部会の会長を連れてきてくださいました。
ちょうど何かの新年会が行われていたとかで、会を抜けてきてくださったのでとても恐縮しました。

お話によると、岡田武松博士は日露戦争当時の日本海海戦において気象台技師予報課長であり、あの有名な電文「天気晴朗なれど波高し」の元となる「天気晴朗なるも波高かるべし」との予報を打った人だそうです。
この予報を的中させたことで岡田博士は勲六等旭日章を受章したとのこと。

センター内に飾ってあった岡田博士の肖像画。

ガラスケース内にあった岡田博士に対して東郷平八郎から送られた書のレプリカ。
ほかに観測気球に乗せて飛ばすラジオゾンデという機械も展示してありました。

さらにこの建物「ふさの風近隣センター」竣工記念として、岡田博士研究部会が発行した「岡田武松博士を偲ぶ」という冊子までいただきました。
内容は岡田博士とかかわりのあった人の寄稿文や業績、年譜、写真など多岐に渡っていました。
これによって日露戦争の予報以外にも気象学分野でものすごく活躍した人だと知れました。

寄稿文からは岡田博士の驚くほど柔和であたたかな人柄が伝わってきました。
いろいろな岡田博士のエピソードが紹介されていましたが、なかでも驚いたのが式典などで博士が小学校にくると子供たちが取り囲んで胸につけた勲章を「触らせて」とせがみ、それに叱るでもなく「いいよ」といって触らせてあげていたこと。いつまでも離れようしない子には「あとでね」と優しくいって笑顔で式典に向かったそうです。町長などほかの来賓者には子供たちは近付かなかったというので、どれほど子供たちに慕われていたのかがわかります。
ほかにも自宅に児童文庫を開設したりと、本当に子供たちを可愛がっていたのだと伝わりました。

またこの冊子で利根川をはさんだ場所に住んでいた柳田国男とは一歳違いで、一高から東大時代まで非常に親しく付き合っていたと知りました。
驚いたので調べてみると、一緒に筑波山に上ったり、岡田博士のことを「武さん」と呼んでいたりと本当に仲が良かった様子。
また岡田博士の妻海老原光子は、柳田国男が利根町で少年時代を過ごした時の家主小川家の孫娘でした。

なんとなく柳田国男記念公苑からこの岡田武松邸に来たので、この二人のつながりにびっくりしました。

史跡,明治時代

Posted by sata04