夢中問答集 感想 一、今生の福報

一、今生の福報 

問。

衆生の苦を抜きて、楽を与ふることは、仏の大慈悲なり。しかるを、仏教の中に、人の福を求むるを制することは、何故ぞや。

夢中問答集 上 一

記念すべき第一問、足利直義は人々の苦しみを取り去って楽を与えることが仏の大慈悲である。しかし仏の教えの中では人間が福を求めるのを抑えているのは何故か、と問います。

これに対して夢窓疎石は様々な仕事を挙げて、一生涯苦労するばかりで狙いの通りに求めた福も得られない。

たまたま求め得て、一時的に楽しむことはあっても災害や犯罪に遭ったり役人に奪われてしまう。

また生涯このようなことに遭わなくても、死ぬときにはその福は持っては行けない。

福が多ければ、罪作りもまた多いから来世は必ず地獄へ落ちる。

今現世で貧人となっているのは前世で欲張った行いをした報いである。

もし前世からの福因がなければ、今世でいろいろとやってもこの世で幸せを多く受けるということはない。

福を求める欲心を捨てれば、福の受け前は自然に満ち足りるだろう。

こういうわけで仏は福を求める心を抑えるのである。

かといって福を求めないでただ貧しくしていればいいわけでもない。

といった風に語っていきます。

そして具体的な例としてインドの須達長者の次のようなエピソードを紹介しています。

須達長者のエピソード

須達長者は老後に福の報いが衰えて、家来も財宝もなくなり夫婦二人きりになった。しかし蔵だけは残っていたので妻が香木で作った枡を一つ見つけ、これを米と交換。

これで2、3日は命をつなげると喜んだものの、須達が外出している間に立て続けに仏弟子が来訪、米を差しあげ、最後に釈迦も来たのですべての米を差し上げた。

このままでは夫に叱られると泣き伏す妻のもとに帰ってきた須達は、「三宝(仏法僧)のためなら餓死したとしても供養のものを惜しむことはない」といい、まだ最初の枡のようなものは残っていないかと蔵に行くと昔のように財宝が満ちており、去っていった人たちも集まり元のような長者に戻った。


そしてこのエピソードを受けて次のようにまとめていきます。

このような幸せ(福分)が再び戻ってきたのは仏がお与えになったのではない。

ただ夫妻の清らかで無欲な心から起こったことである。

夫妻の無欲な心を学ばないで、ただ欲情のままに福を求めるなら今生に求め得る大利はないばかりか、来世は必ず餓鬼道に堕ちるであろう。

感想

え? 仏教めちゃくちゃ厳しくない? というのが正直な感想。

福は死後に持っていけない、辺りはなるほどと思いましたが、だいたい現世の自分は前世の自分の報いのせい。

自分達は餓死してまで仏法僧を敬うのが清らかな心……。

聖書にもありましたよね、アブラハムの逸話。神のために一人息子を生贄に捧げよという。信心というのは世界中で求められるのもは変わらないのでしょうか。

そしてこういう風に説かれた直義はどう感じたのかな? と思いを馳せてしまいます。

為政者として貧困を解消して人々の不満を小さくするのは直義の仕事だと思います。

しかし貧困は本人の前世の行いのせいだ、という風に言われるとそれはものすごく為政者の責任逃れに便利なロジックではないかなと思うのです。

答の中で夢窓は、目をかけてくれない主人のせいで貧しいと恨む人、領地を奪われたせいで貧しいと腹を立てる人、そんな人達にも貧しくあるべき前世の報いの結果であると言い切っています。

領土問題は武士にとって死活問題で直義も奪ったり奪われたり、裁判をする側としても多く関わっていたと思いますが、これを聞いてどう思ったでしょうか。

これ幸いとこの教えを統治に利用しよう、と思う性格ではなかったでしょう。

なんといっても八朔の贈物さえ賄賂になるからと受け取らない生真面目な性格。

ここで問いに戻ると「どうして仏の教えでは人が福を求めるのを抑えるのか?」そしてその答えが「福をただ求めると地獄に堕ちる。福が多いとその分罪も多いから地獄へ堕ちる。福を求める心を捨てれば自然と福は満たされる。そもそも現在の自分は前世の行いのせい。」

じっくり読もうと思ったけれどじっくり読んでも難しい。

過去に何度か、モノでも人でも執着をするから苦しい。執着を捨てれば苦しくないといったことを聞いたことがあります。

つまり福を求める心がなければ、そもそも得られないだろう福のために生涯苦労することもない。もし得たとしても突然失ってしまったり、そもそも死後の世界には持ってはいけない。つまり福を求める心があると苦しむだけだ、ということでしょうか。

今世で福を求めるのは前世で欲張った行いをした報いだから、今世で欲を捨てれば福は自然と満たされる。ということでしょうか。

しかしそれでも「欲を捨てれば福は自然と満たされる」これがよくわかりません。

これが来世は福をもって生まれる、とか来世の福ポイントを貯めている感じならわかるのですが、須達長者の例だと財宝がからっぽの蔵に現れます。これは夫妻の清らかな心が起こしたこと、と語られていますが実際に起こったのはおそらく仏による物理的な救済。奇跡が起こっています。

実際にこうした奇跡は欲を持たずに生きていてもめったにお目にかかれないでしょうし、そもそもそういった「奇跡」を期待して欲を持たずにいること自体がとても欲深いような気もします。

難しい。

第一問の答えからとても難しいです。

欲深く生きるのは苦しみを生み出すだけだというのはわかるのですが、例に出された須達長者の話だと生存欲すら欲深いと見なしているようで怖く感じます。

みんながみんな現在の自分を前世の行いのせいだと受け入れ、生存欲すら抑えて仏法僧を大事にしたらそれはそれはSFの題材にされそうな素晴らしい世界が出来上がる気がしますね。

仏教って難しい。

前世の行い、で以前読んだ作家の岸田奈美さんのnote記事を思い出しました。

仏教国であるミャンマーに車いすユーザーの母親とともに訪れたら、現地のミャンマー人たちは徳を積むためにこぞって手助けしてくれたというエピソードが紹介されています。

とても素敵だと思いましたが、同時に障害者は前世で悪いことをした人だという考え方もあり、農村地帯などで生まれると「家族の恥」として死ぬまで閉じ込めて隠してしまうこともあると書かれていました。

こういうエピソードを見ると前世の報いなんてそんな馬鹿な! といいたくなります。

しかし仏教の教えをちゃんと受けたことがないので、まずはこの夢中問答集でその思想に触れていきたいです。

この夢中問答集、足利直義が何を問うたのか、それへの興味がほとんどですがどうして夢窓疎石が国師とも慕われたのか、その理由にも触れれるのではないかと期待しています。

夢中問答集,読書

Posted by sata04