夢中問答集 感想 四、欲心の放下
第四の問い、足利直義は福を求める欲心を捨てればよい報いに自然と満たされることは疑いがない。けれども、この欲心を捨てることが簡単ではない、どうしたらよいかと問います。
夢窓は次のように答えます。
もし人が欲心を捨てたいと思う心が、福を願う心のように強く願い求めるならば、捨てがたいとは言えない。
ただし欲心を捨てれば大きな福を得られると思って捨てようとしたら、これは金儲けなどのはかりごとをめぐらして福を得たいという人と違いはない。
これは有為の福報を求めるのだけを嫌うのではない。
二乗は無為涅槃を願う欲心があるが故に、なおも化城(幻の城、現象の世界)に留まる。
三賢十聖の菩薩も、法欲いまだ尽きざるが故に、妙覚の大智(奥深い悟りの境地)、現れず。
もし人が世間を出世したいという欲心を直ちに投げ捨てれば、本来の無尽蔵がたちまち開けて、無辺の妙用、無量の三昧等の、種々の家財を運び出だして、自らに役立たせ、他人に役立たせること無限である。
とても欲心を発すとならば、どうしてこのような大欲をおこさないのか。
もしこの大欲を起こす人があれば、小乗の極果をも願わず、菩薩の高位もうらやまず。
いわんや人中、天上の福報をうらやむことがあろうか。
感想
ざっくりまとめると、
欲望を捨てれば自然とよい報いに満たされるのはわかった。
でも欲望は簡単には捨てれない。どうしたらいいの?
もし人が福を願うのと同じくらいに、欲望を捨てたいと強く願い求めたら捨てるのは難しいことはない。
ただし大きな福が欲しいから欲望を捨てたいと願っても、これは金儲けで成功したいという人と変わりはない。
これは物質的な福を求めるのだけがだめだと言っているわけではない。
二乗や菩薩であっても涅槃や法を求める欲があるからその願いが叶っていない。
もし人がこの世での欲望とこの世以外での欲望、両方を捨てられれば、本来もっている不思議な力、無限の集中力など、数々の財産を自分や他人のために無限に使える。
どうせ欲望をおこすなら、どうしてこれくらい大きな欲をおこさないのか。
これくらい大きな欲望なら涅槃に入ることも願わずに菩薩の位をうらやむこともなく、ましてやこの世やあの世での福をうらやましがることもない。
って感じでしょうか。
今回の直義の問いは私が問い1~3を読んで感じた疑問とほぼ同じでした。
どうやったらその「欲」を捨てれるの? という。それが一番難しいんですけど、という。
それに対する夢窓の答えはいつも通り、現世での金儲けとか幸運のために欲望を捨てようとしてもダメ。
二乗とか菩薩とか一見欲がなさそうに見える存在も、物質的な欲望ではないけど欲望を持っているからダメ、というもの。
そしてここからが今回の肝。
だから物質的な欲望も、精神的な欲望も両方捨てないとダメ。それができたら不思議の力で自分も他人も助けることができる。
どうせ欲が捨てれないなら、この不思議な力を得て自分も他人も助けたいという大きな欲を持て。
欲を捨てろ、しかし捨てれないなら大きな欲を持て、というのが今回の答えでしょうか。
とても大きな欲(自分と他人を助けたいという思い)の前には金儲けとか涅槃とか悟りとか関係なくなっちゃうよ、ってことでしょうか。
なるほどなあ、という気持ちと、なんだかとってもうまくはぐらかされたようなそんな気もします。
全部捨てれば全部手に入るよ、と言われてもなかなか捨てられないのが人間だと思います。
しかし小さな欲望より大きな欲望を持て、なら案外できるかも? という人も多いかもしれません。
啓発本とかにも目標は高く持て、みたいなこと書いてありますもんね。
今回の答えは為政者である直義にとっても欲を捨てろ、より受け入れやすかったかもしれません。
毎回答えを聞いた直義はどう思ったかな? と考えるのがこの本を読む楽しみです。