茨城県立歴史館 特別展「佐竹氏-800年の歴史と文化-」

茨城県立歴史館

茨城県立歴史館で行われていた特別展「佐竹氏ー800年の歴史と文化ー」に行ってきました。

開催期間は2020年2月8日(土)~3月22日(日)

ひょっとして新型コロナウイルスの影響で歴史館も閉館になるかな、と心配していましたが、講演会や展示解説・イベントは中止されましたが展示自体は続行されていました。

特別展 「佐竹氏ー800年の歴史と文化ー」

展示は全部で6章

佐竹氏のおよそ800年の歴史を、常陸時代の佐竹氏を中心に時代に沿って展示してありました。

第一章 河内源氏、東へ (平安時代末期~鎌倉時代)

佐竹氏の元祖である源義光像や後三年合戦絵巻や源氏系図の展示とともに、常陸国での佐竹氏の創成が紹介されていました。

第二章 守護は太田より (南北朝時代)

南北朝時代の佐竹氏についての展示。

佐竹貞義が自身の庶長子である月山周柩を夢窓疎石に弟子入りさせ、夢窓を通じて尊氏・直義兄弟との接近を図っていたのは驚きました。ここでは夢窓疎石像や足利直義の御判御行書などが展示してありました。

観応の擾乱の余波は佐竹氏にもおよび、貞義は尊氏方、嫡子の義篤・義香・義春・義長などは直義方と一族内での内紛状態に。

観応の擾乱が尊氏の勝利になったからには多くが直義方に味方した佐竹氏も処罰されると思いきや、南朝の相次ぐ蜂起で追い詰められた尊氏を支援することによって不問にされたようです。

第三章 佐竹100年戦争 (室町時代前半)

応永14年(1407)9月21日、佐竹義盛は後継男子がいないまま世を去り、重臣の小野崎、江戸氏らは関東管領山内上杉憲定の子、竜保丸(上杉義憲)を後継として推し、佐竹山入与義を中心とした一族は義盛の弟義有を支持して対立、この際主張されたのが 「竹に杉は接げない」 だそうです。

とても印象的な言葉ですが、上杉氏が藤原氏出身であり、源氏である佐竹の宗家にはふさわしくない、という意味だそうです。これが以降100年にも及ぶ佐竹の乱の始まりになったそうです。

第四章 北と南の難敵 (室町時代後半、戦国時代)

佐竹三家の成立や、奥州米沢の伊達家、南関東小田原の後北条氏という難敵との対立などが紹介されていました。

なかでも印象に残ったのは佐竹義宣の人色皮包仏胴黒糸威具足という鎧の兜につけられたモフモフした黒い前立て。熊毛で作られていて、なんと毛虫をイメージしたそうです。毛虫は前にしか進まないから武士の勇猛さを表す、または葉(刃)を喰うから縁起担ぎ、などの説があるそうですが、毛虫と知ってみると巨大な分なんだか微妙な心地になりました。兜は今の感性からではびっくりするものが多い印象があります。

興味のある方はこちらに写真があります→ 佐竹資料館

第五章 天下人を仰いで (安土桃山時代)

佐竹義宣は豊臣秀吉に従属し、拠点を太田から水戸へと移したこと、秀吉没後は石田三成を支え、関ケ原合戦後は秋田へ転封処分になったことなどが紹介されていました。

ここでは秀吉像、光成像の他、光成の判物、常州水戸城図、兜や刀などが展示されていました。

第六章 常陸への回帰 (江戸時代)

秋田へ転封後の佐竹氏の歴史や修史事業について、また美濃や土佐など各地の佐竹氏についても紹介されていました。

雑感

佐竹氏に対しては何のイメージもなく、南北朝時代の常陸国について詳しく知れるかも、といった動機で見に行きました。結果見に来てよかった、と思える展示内容でした。

まさか息子を夢窓疎石の弟子にするという驚きの接近の仕方があるとは思いもしませんでした。もちろんそれ以外にも戦働きなどでもしっかりアピールしていましたが。

佐竹氏自体に関しては、要所要所での選択で結果的に敗者側についてしまっていることが多い割によく生き残ったな、という印象を抱きました。チラシにも「時代の荒波にもまれ、苦渋の選択を迫られることもありましたが、忍耐と機転で困難を乗り越えました。」とありましたがまさにその通りでした。

ところで現在新型コロナウイルス関連が連日メディアを賑わせていて、その対応に各県や市の首長がよくSNSなどで話題になっています。

そんな中で現在の秋田県知事が佐竹 敬久(のりひさ)さんで、その名の通り佐竹氏の末裔だと知って驚きました。佐竹北家21代目当主だそうです。

博物館,特別展

Posted by sata04