夢中問答集 感想 二、仏法は世法
二、仏法は世法
問。
世間の業をして福を求むるは、罪業の因縁なれば、まことに制せらるべし。福を祈らんために仏神を帰敬し、教咒を誦持するは結縁とも成りぬべければ、許さるゝ方もあるべしや。
夢中問答集 上 二
第二の問いで、足利直義は第一の問いの夢窓の答えを受けて、仕事に福を求めるのは罪業の因縁になるから、まさに禁ずべきであろう、とまずは言います。
そして続けて、では福を祈るために仏神を敬い信じ、教咒(経文・陀羅尼)を唱え続けるのは結縁(仏道の縁を結ぶこと)になるのだから、許されてよいのではないかと問います。
これに対し夢窓は、もし結縁ということから論ずるなら仕事に福を求めるよりも勝っている。しかし世間の福を求めるくらいの愚人は論ずるに足らず。たまたま人間に生まれて仏法に出会いながら無上の悟りの道を求めずに無駄に経や陀羅尼を唱え続けて世間の福を求めるものはことに愚か。
古人が言っている、世法の上で情を忘れれば、それは仏法である。仏法の中において情を生ずればそれは世法になってしまうと。
たとえ仏法を修行して自らも悟りを開き、また衆生を済度しようと大願を起こした人でさえも、もし仏法において愛着の情を生じれば、自利利他(自分が悟ること、他人を救うこと)ともに成就しない。
いわんやわが身の出家のためでも、衆生の利益のためでもなく、ただ世間の名利を求めるための欲で仏神を信仰し、経・陀羅尼を唱えてどうして神仏の思し召しに叶おうか。
もし命長らえて仏法を修行し、衆生を誘引する方便のためならば、世間の種々の事業を行ってもそれらは皆善根となるであろう。またそうしているうちに仏法を悟れば、前に営んだ世間での仕事が、単に衆生利益の縁になり、仏法修行の助けとなるのみならず、不思議解脱の妙なる働きになるだろう。
「法華経」に、治生産業(日常の生業)も皆実相(真の姿)に背かずと説いているのはこの意味である。
と答えます。
感想
ざっくりまとめると、
仕事に幸運な結果を求めるのは欲深い行いだからダメだけど、幸せになりたいと神仏を敬ってお経などを唱えるのは仏教との縁を結ぶことになるから許されるんじゃないか?
仏教との縁という意味ではお経を読む方がただ仕事の幸運を求めるよりマシだけど、それでも悟りの道を求めないでただお経を読むのは愚かなこと。単に自分の欲のためにお経を唱えても神仏のお考えにはあわない。
しかし人々を救うための手段としてなら、いろんな仕事をしてもそれらはすべて良い報いのもとになるだろう。またその仕事をしているうちに仏法を悟れば、今までしてきた世間での仕事が人々を救う幸運の縁になって仏法修行の助けとなって、悟りの境地に至る素晴らしい働きになるだろう。
法華経に日常の仕事もすべて仏法の真の姿と違わないと書いてあるのもこのことだ。
といった感じでしょうか。
今回の教えは第一問よりだいぶ理解しやすかった気がします。
つまり自分の欲望のためにお経を読んでも意味がなくて、お経を読まなくても人のために働いていたらそれは仏の教えの実践になるから悟りへの境地の助けになるよ、ということでしょうか。
「法華経」にもそう書いてるよ、と。
ここで今回の問いのタイトル「世法は仏法」ということになるんですね。
古人が言っている、世法の上で情を忘れれば、それは仏法である。仏法の中において情を生ずればそれは世法になってしまうと。
ここでの「情」は「欲」と訳せばいいでしょうか。
世間のしきたりに従って欲を持たずにいればそれは仏の教えに従っている。仏の教えに従っていても欲が生まれればそれは世間のしきたりに従っていることになる、と。
欲が生まれることを自分で制御するのはとても難しいと思うので、仏の教えに従っているつもりでもできていない、というのはとても悲しいことですね。
しかし逆に仏の教えを意識していなくても、この世のしきたりの中で欲を持たずに生きていることで結果的に仏の教えを実践できるているというのは素敵だと思います。
お経って普段はお葬式の時やお盆の時にしか聞かないので死者の弔いのためにお坊さんに読んでもらう、みたいなイメージが殆どでしたが、ほかにも読経することで徳を積む、みたいなイメージも持っていました。
この問いを直義がしたということは、当時の人間も読経することで福(幸運)を得られると考えていたということでしょう。
しかし夢窓の答えではお経は別にそんな願いの叶う魔法の呪文みたいなものではないんですね。
また自宅でできる信心だと経を読むというのはやはりトライしやすいのではないかな、とも思うのですが、それよりも仕事など日常生活で欲をもたずに人のために過ごすことがよほど神仏の考えに叶う、ということですね。
なるほど、確かに! と思うのですが、実際「欲」をコントロールするよりも読経の方が取り組みやすそうと思う私は夢窓のいう愚か者です。
第二問にして仏教ってとても「欲」について厳しいんだなと感じました。
直義も無性に教咒を唱え続けた時があったのかな? と想像してみますが、あったかもしれないし、そんな誘惑を振り切ってその原因に取り組んでいた気もします。
ただ尊氏はものすごく読誦していたと思います。そんなイメージを持っています。
