和気清麻呂銅像(東京都千代田区)
和気清麻呂銅像

和気清麻呂は769年の宇佐神宮神託事件で僧・道鏡の天皇への即位を阻み大隅国へ流罪となるも、翌年復帰し、後に平安京造営や治水事業を推進した。
幕末になると孝明天皇が清麻呂の功績を讃え、正一位を贈った。


石碑

書き起こし
國體擁護 元帥載仁親王
ここに立たせるは護王大明神の神号を給はりし
贈正一位和気清麻呂公の像にして宇佐の大神の
貴く畏き御教言を承り復奏の為に参内せるさまを
うつせるなり公の誠忠は國史の上に顕著なるが殊に
孝明天皇の宣命に身の危うきを顧ず雄々しく
烈しき誠の心を盡せるはと稱へさせたまひまた
明治天皇の策命に日月と共に照り徹れる偉き
勲をめでさせたまへりこれの像は明治の大御代に允許を
添うせしを今茲紀元二千六百年の記念として
宮城の御濠に沿へる地に建設せるなり公の英霊は
千戴生けるが如く儼然として宮闕の下を離れず我が
國體を擁護しまつり天地と倶にとこしへに存せむ
昭和十五年二月
大日本護王会
銅像制作
1940(昭和15)年、陸軍大将林銑十郎らの働きかけで、紀元2600年を記念して民間から募金して建造することになった。
朝倉文夫、北村西望、佐藤朝山(さとうちょうざん)の3人で競作することになり、最終的に佐藤朝山に決まった。
佐藤朝山は宮城外苑の和気公の像を作るために宇佐八幡宮へ参籠し、また和気公の由緒のある宮々へ参拝して帰るが否や工房に注連縄を作り神官にお祓いをして貰つて夫人も近づけず像成るまで書生に食事を運ばせるだけで人にも会わなかつたということであつた。
小野賢一郎 著『神像』,宝雲舎,昭和17.
当初は大手門と平河町の間の厚生省前に建造された。
1963(昭和38)年9月、地下鉄五号線(東西線)工事のため、約500メートル移転し現在地へ。






