第五福竜丸展示館(東京都江東区)
夢の島公園に都立第五福竜丸展示館があります。
第五福竜丸とは1954年3月1日に、マーシャル諸島ビキニ環礁でアメリカがおこなった水爆実験により被爆した静岡県焼津港所属の遠洋マグロ延縄漁船です。
その後、東京水産大学(現・東京海洋大学)の学生の航海の練習船「はやぶさ丸」となり約10年使用されたのちに夢の島にゴミとして捨てられました。危うく埋め立てられるところに保存運動が起こり、当時の都知事美濃部亮吉が平和の願いのシンボルとして保存を表明。現在の第五福竜丸展示館として昭和51年に開館。
珍しい形の展示館は建築家杉重彦による設計で、二枚貝から着想したデザインだそうです。

開館時間 | 9:30~16:00 |
休館日 | 月曜日(祝日の場合、開館し火曜日休館) |
入館料 | 無料 |
展示構成
中央に「はやぶさ丸」から「第五福竜丸」に船名が戻された船体を展示。


船体を囲むようにパネルと資料展示。
- 第五福竜丸の被災
- 乗組員の健康被害
- 原爆マグロと放射能雨
- 原水爆禁止を求める声
- 福竜丸以外の被災船と汚染の広がり
- マーシャル諸島の被害
- 世界の核実験
- 核関連年表
- ラッセル=アインシュタイン宣言

特別展示
2024年にノーベル平和賞を受賞した日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)の代表委員・田中煕巳さんが第五福竜丸無線長・久保山愛吉さんへ送った追悼の寄せ書きが特別展示されていました。


特別展示
ノーベル平和賞受賞の日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)の代表委員・田中煕巳さんから久保山愛吉さんに送られた追悼の寄せ書き
12月10日、ノルウェーのオスロで、2024年のノーベル平和賞の授賞式典がおこなわれました。広島・長崎の被爆者約30名が列席し、代表して日本被団協の代表委員が賞状と記念メダルを受け取り、田中煕巳さんが受賞記念のスピーチをしました。
解説パネルより
田中さんは、第五福竜丸の被ばく当時、東京で働きながら同僚とともに、9月23日に亡くなった福竜丸無線長・久保山愛吉さんへの追悼の寄せ書きを送りました。田中さんは、それまで長崎原爆で被爆したことは、ほとんど話したことがなかったそうです。第五福竜丸の被ばく、久保山さんの死にたいし、「思わず記してしまった」とご本人は語ります。今回、ご本人の了解のもと展示します。
市民の日常生活を襲った水爆実験の影響は、核実験反対、原水爆禁止の声となり広がり、55年8月には広島で原水爆禁止世界大会が開催され、翌56年、長崎の世界大会の中で被爆者の全国組織が結成されたのです。被爆者は、原爆の惨禍とその苦しみを広く伝え、二度と再び核兵器を使わせない、核兵器なき世界への取り組みを70年余り、内外で続けてきました。
第五福竜丸のエンジン


マグロ塚石碑

1997年、第五福竜丸元乗組員の大石又七さんが発起人となり、マグロ塚をつくるための十円募金を開始し、募金は2万2000人約300万円が集まり、2000年4月にマグロ塚が建立されました。揮毫も大石さんによるもの。
被爆マグロの埋め立て地である築地市場ではなく展示館横にあるのは、築地市場の移転計画があったり再整備がおこなわれたりといった理由からだそうです。現状は仮設置という扱いのようです。
雑記
教科書で習った事件の詳細を初めて知ったので驚きの連続でした。被爆の被害そのものも恐ろしかったのですが、その後の賠償に関して起こった問題や、マーシャル諸島でのアメリカ政府の非道さも印象に残りました。
放射線をあびたロンゲラップとウトリックの人びとは、人体への放射線の影響を調べる「プロジェクト4.1」と呼ばれる研究の対象にされました。このため被爆の治療は行われず、症状の観察のみが続けられました。
解説パネルより


展示館の内容から来館者は少ないかな、と予想していましたが単独の人、家族連れ、外国の人などたくさんの人が訪れていました。