一月寺(千葉県松戸市)
普化宗総本山 一月寺(いちげつじ)
一月寺は明治4年(1871)の普化(ふけ)宗廃止令で廃宗されるまで、普化宗総本山として知られていました。
鎌倉時代に宋の禅僧金先(きんぜん)が開山しました。
現在は日蓮宗のお寺の一月寺(いちがつじ)がありますが、昔の一月寺(いちげつじ)とは無関係だそうです。

虚無僧寺 一月寺
普化宗は、中国唐代の普化禅師を宗祖とする禅宗の一派で、その僧侶を虚無僧といいます。
虚無僧は檀家を持たず、葬式を行うこともなく、座禅の代わりに尺八を吹いて托鉢修行を行いながら諸国を行脚しました。

延宝5年(1677)幕府は虚無僧寺院の法度を定めました。
安永6年(1777)には一月寺を本寺とする金先派、京都明暗寺の寄竹派などの組織があり、諸国に約80の虚無僧寺院がありました。
一月寺は鈴法(れいほう)寺とともに「普化宗触頭」または「普化禅宗惣本寺」として普化宗総本山として全国に知られるようになりました。
仙石騒動
仙石騒動とは、但馬出石藩の仙石氏家中でおきたお家騒動です。
文政7年(1824)に藩主が急死すると、筆頭家老仙石左京が藩政を牛耳り、反対派は左京を弾劾する文書を作成し神谷転(うたた)という藩士がそれを幕府に取り次ぎました。しかし左京の訴えにより逆に神谷が幕府に追われることとなりました。
神谷は一月寺に帰依して保護を求め、虚無僧姿となって潜伏しましたがやがて捕らえられてしまいました。このとき一月寺の僧愛璿(あいせん)が弾劾書の写しを寺社奉行に提出して左京の非を暴き、神谷の逮捕は普化宗の存続に関わると訴えて幕府の支持を取り付けました。左京は処刑され、神谷は無罪放免。この事件を機に一月寺の存在感は高まり、本山の地位を二分していた鈴法寺の勢力を退けることになりました。
騒動のあと、神谷は一月寺の末寺である上総の松見寺(袖ケ浦市)に看守として残りました。松見寺跡である吾妻神社には神谷直筆の石碑が残っているそうです。また萬満寺(松戸市)にある遺墨墳碑(一月寺遺石)は、愛璿の恩に報いるために天保13年(1842)に神谷が建立したものだそうです。
参考
小和田哲男 監修. もっと知りたい千葉県の歴史, 洋泉社, 2014.12, (歴史新書). 978-4-8003-0550-3.
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I025926684
松戸市立博物館 編. 常設展示図録 : 松戸市立博物館. 改訂版, 松戸市立博物館, 2004.8.