ホテル赤門(源為朝館跡、為朝神社) (東京都大島町)

ホテル赤門 源為朝館跡に建つホテル

赤門

ホテル赤門 館内

赤門とホテル本館

入館するとすぐ右手のショーケースに鎧と藤井家の提灯が飾ってありました。年末だったので鏡餅も。

為朝は伊豆大島流罪後は伊豆領主・狩野(工藤)茂光の家来、大島代官・藤井三郎重忠に預けられ、その娘を妻として2男1女をもうけたそうです。

保元物語では追討軍に追い詰められた為朝は長男を殺し、それを見た妻が5歳の次男と2歳の長女を抱いて逃げたとあります。

嶋の冠者為頼とて、九歳になりけるをよびよせてさしころす。これをみて、五になる男子、二になる女子をば、母いだきてうせにければ力なし。

保元物語 巻之三

ホテル赤門の現在のご当主は為朝から数えて40代目だそうです。

ケース内の浮世絵
箸袋

夕飯の箸袋にも為朝。

各部屋名も為朝、義経や弁慶、義家や頼朝など源氏ゆかりの名前ばかりで歴史ファンとして楽しかったです。

他にも為朝が主人公の物語、滝沢馬琴の「椿説弓張月」で為朝の妻として知られている白縫やささらえの名前の部屋もありました。

抜け穴

抜け穴

ホテル敷地内に抜け穴の看板と人が入れそうな穴がありました。為朝が戦に備えた遺構と伝わっているそうです。

ちから石

ちから石

こちらもホテルの敷地内にちから石という看板が。

為朝神社

ホテルの敷地内に広大な庭園と為朝神社もあります。

とてもきれいに手入れされているのが伝わる神社でした。

神社への参道に狛犬ならぬシーサーが。為朝が琉球へ逃れたという伝説からでしょうか。

今回為朝を調べていて驚いたのは、為朝が初代琉球王舜天の父であると琉球王国の正史「中山世鑑(ちゅうざんせいかん)」にも書かれていると知ったことです。

「椿説弓張月」の創作と思っていたので、それ以前からそういった伝説があったとは思いませんでした。沖縄県今帰仁村には大正時代に建てられた東郷平八郎揮毫の為朝上陸の碑があるそうです。

さらにこの為朝来琉説、明治期の日本では歴史学会でも信じられていたというから驚きです。

あの時代に児島高徳の実在を否定し、楠木正成親子の桜井の別れが史実ではないと断言した実証史学の権威、抹殺博士の異名を持つ重野安繹(しげのやすつぐ)や、台北帝国大学初代総長、幣原担(しではらたいら)ですら事実として扱っていたそうです。

沖縄でも明治44(1911)年10月13日の「琉球新報」に、「為朝の遺骨現る」という為朝の遺骨と偽った詐欺事件の記事が掲載されていたそうです。沖縄でも信じる人がいたということのようです。

鳥居

鬼夜叉の墓

鬼夜叉の墓

鬼夜叉とは椿説弓張月の中で為朝の身代わりとなって死んだ男の名前です。

作中では女しか住んでいない女護の島(現在の八丈島)での妻の実父で、男しか住んでいない島(芦が島)から連れ帰ってきました。

保元物語でも為朝が鬼ヶ島に渡って大男を連れ帰ったとの記述があります。

 

保元物語での結び。

此為朝は、十三にて筑紫へ下り、九国を三年にうちしたがへて、六年おさめて十八歳にて都へのぼり、保元の合戦に名をあらはし、廿九歳にて鬼が嶋へわたり、鬼神をとってやつことし、一国の者おぢおそるといへども、勅勘の身なれば、つゐに本意をとげず、卅三にして自害して、名を一天にひろめけり。いにしへよりいまにいたるまで、此為朝ほどの血気の勇者なしとぞ諸人申ける。

保元物語 巻之三

この為朝は、13歳にて筑紫へ下り、九州を三年で従え、6年治めて18歳にて都に上り、保元の合戦で名を現し、29歳で鬼ヶ島へ渡り、鬼神を捕らえて家臣にして、伊豆の人達がひどく恐れていたとしても、勅勘の身なのでついに思い通りにならず、33歳にして自害して名を天下に広めました。古から今に至るまで、この為朝ほど気力のみなぎった勇猛な者はいないと多くの人が言いました。

参考

保元物語 菊池眞一研究所 保元物語のHTMLファイルとtxtファイルがあります。

義経伝説と為朝伝説 日本史の北と南 (岩波新書)原田信男

歴史に名をのこす英雄、源義経とその叔父為朝。だが確実な史料は少なく、膨大な「英雄伝説」のみが流布する。とくに義経伝説は主に北海道へ、為朝伝説は琉球へと広まり、彼らの像は大陸の覇者や王朝の始祖的存在へと飛躍を遂げる。なぜそうなったのか?二人の伝説を通して北と南から「日本史」を読み解く、刺激的な一書。

史跡,平安時代

Posted by sata04