本土寺(千葉県松戸市)

本土寺は日蓮の檀越の曽谷法蓮が、日蓮の六老僧(死の直前に後継者と定めた六人)のひとり日朗に帰依して開いたのが始まりだとされています。正式には長谷山本土寺。

日朗が開基した鎌倉の長興山妙本寺・武蔵の長栄山本門寺とともに山号に「長」、寺号に「本」の字がつくことから朗門の「三長三本」または「三本三長」と呼ばれました。

仁王門(赤門)

仁王門

「長谷山」の扁額を掲げています。昭和45年(1970)5月の解体修理で、二天王の体内から造立勧進帳が発見され、慶安年間、日慧の発願による建築だと明らかになりました。階上には金色の千体仏が祀られています。

また門にかけられている大数珠は昭和18年(1943)頃に戦勝祈願で奉納されたものだそうです。

鐘楼

鐘楼

梵鐘には建治4年(1278)の鋳造銘があり、県下2番目の古鐘だそうです。

文明14年(1482)本土寺10代住職日瑞が施した追刻により願主は真行坊日弘、合力は設楽助太郎、大伴継長だと分かるそうです。

昭和52年(1977)、国重要文化財に指定されました。

五重塔

五重塔

平成3年(1991)春、日像菩薩第六百五十遠忌報恩記念として建立されました。高さ18m。中にはインドのネール首相が京都平和大宝塔へと送った仏舎利のひと粒が納められ千体仏が共に祀られています。

芭蕉句碑「翁の碑」

芭蕉句碑

「御命講や、油のうやうな、酒五升」と刻まれており、日蓮の命日忌に備えられた豊潤な酒を読んだものだそうです。文化元年(1804)10月、松尾芭蕉(1644〜1694)の111回忌を記念して建立されました。

本土寺ではしばしば「翁会」と称する句会が催され、小林一茶(1763〜1828)も参加しておりいくつかの句が残っているそうです。

本堂

本堂

もともとは祖師堂でしたが、明治15年(1882)宗祖六百遠忌の際に場所を移し本堂とし、昭和52(1977)年の宗祖七百遠忌のときに拡大改造しました。

「三本三長」の鎌倉妙本寺・池上本門寺と同様に一尊四士本尊と等身大の日蓮像を祀っています。この一尊四士本尊は慶安4年(1651)に秋山正重(叔母は徳川家康の側室秋山夫人)の妻恵了院日修が息女の菩提を祈って造立し寄進したものだそうです。

一尊四士とは法華経従地涌出品だけに登場する上行・無辺行・浄行・安立行の四大菩薩を釈尊の脇士として作り描いた本尊のことだそうです。日蓮宗寺院の本堂の多くは一塔両尊形式(題目を描いた宝塔と釈迦如来・多宝如来)なので、一尊四士は朗門(日朗の門流)の特徴とも言えるそうです。

秋山夫人の墓

秋山夫人の墓

秋山夫人とは甲斐武田氏の家臣秋山虎康の娘で、秋山夫人とも下山殿とも呼ばれました。後に穴山信君(梅雪)の養女となり、徳川家康の側室になりました。家康は秋山夫人の産んだ信吉に武田の名跡を継がせ小金領を与えました。秋山夫人と信吉はともに小金に移り、天正19年(1591)に秋山夫人は逝去。本土寺南方の参道西側に松樹を植えて墓標とし葬られました。信吉はのちに佐倉に移封、さらに水戸に転封されました。

貞享元年(1687)水戸藩主の水戸光圀は、江戸往還の途中本土寺により、参道脇の「日上松」に目をとめ、その由来を尋ねたところそれが初代水戸藩主武田信吉の母秋山夫人の墓だと知り、直ちに改葬を命じ、境内本堂の裏に墓塔を建立し、自ら碑文を撰しました。その後秋山夫人の香灯料として田園二十石を寄進し、本土寺はこれを基金として千部読誦会を始め、以後毎年3月の恒例行事となりました。

開山門(一名朗師門)

開山門

開山の建治3年(1277)以来の門と伝えられています。二代目住職の日伝は、師の日朗を尊んで、日朗の出入り以外は扉を開かなかったという言い伝えから一名朗師門と呼ばれているそうです。

妙朗堂

妙朗堂

日朗の母、妙朗尼を祀っています。
大正末期の建築で、昭和28年(1953)に現在の場所へ移築。

像師堂

像師堂

日朗の弟子日像は、日蓮からの遺命で京都布教をわずか12歳で託され後に京都初の日蓮宗道場妙顕寺を建立します。平賀妙泉寺が日像・日輪(同じく日朗の弟子で三本三長の寺残りふたつの住職を兼任した)の生誕地だという伝承が古くからあったそうです。

この寺域は昔は妙泉院と呼ばれ、中世からは輪蔵院と改称。戦国時代には両師生誕の地と喧伝して三本三長の「三ヶ寺参り」が流行った時期もあったそうです。江戸時代になると「日像菩薩御誕生地略縁起」など、様々な「縁起」を作成してさらなる参詣者を集めたそうです。

像師堂には現在「日像菩薩像」が祀られています。

雑記

とにかく広い境内なので一周するのにもいい運動になりました。第60代住職河上順光さん編著「本土寺物語」を参考に散策しました。

寺を樂園浄土にしよう 寶樹花果多くして 衆生の遊樂するところなり

平賀第六十世日順

戦後の荒廃のなか法華経寿量品偈の一節「寶樹多花果」を実現しようと決意し、池を掘り、花樹を植え、堂塔を修復した結果現在の「アジサイ寺」として知られるような花の名所になったそうです。実は最初に植えたのは桜で、その下にアジサイを挿し木していったそうです。

また菖蒲園の裏の竹藪にマンション建設計画が出た際は、近隣住民が反対に立ち上がりなんと6万もの署名が集まり計画は撤回されたそうです。

参考

本土寺物語  河上順光 編著 本山本土寺 2005.6.
 

史跡,戦国時代,江戸時代,鎌倉時代

Posted by sata04