馬加康胤首塚(千葉県千葉市)
馬加康胤の首塚とされる五輪塔

この五輪塔は伝説だと馬加康胤(まくわり やすたね)の首塚だと言われています。
馬加康胤とは、室町時代の武将です。
馬加康胤は東常縁(とうのつねより)との戦いに敗れ、康正2年(1456年)11月に上総の八幡(現在の市原市八幡)、雁田川のほとりで討ち死にしたと伝えられています。
伝説によると、
遺体:八幡の地(市原市八幡の無量寺)に葬られました。
首:家臣たちによって、この五輪塔がある大須賀山(堂の山)に運ばれ、埋葬されたと伝わっています。
また、この大須賀山は、康胤の首とは別に、戦乱で亡くなった多くの人々の死者を葬った場所とも伝えられています。
康胤の死後、この地には、
応仁2年(1468年)に供養塔が建てられたとされています。
現在見られる五輪塔は、さらに時代が下った寛永10年(1633年)に建立されたものです。
しかし1990年の調査報告書(千葉県歴史の道調査報告書 14 )によると、
しかし、この寛永14年(1637)造立の塔には、地輪部の上部に梵字(アーンク)、中ほどに「建立」、下部に「朝惟 宥光 二親 宥得」とあり、下部の二親は最も下げて小さく刻し、宥得の字もやや小さいことから、僧宥得が二親の供養のために造立したと思われ、再検討を要する。
千葉県歴史の道調査報告書 14 (房総往還 1) 出版者千葉県教育委員会
とあり、この五輪塔はどうやら伝説とは違う可能性が高そうです。



五輪塔の裏側にも梵字アーンクが。アーンクは大日如来を表すそうです。
この五輪塔の周辺は大須賀山城址とされているようですが、こちらも先ほどの報告書によると現在の遺構からは判別が難しいそうです。
「千葉市史史料編1」(千葉市史編纂委員会 千葉市 昭和51)は、単郭の「大須賀山城址」であり遺構は土塁と腰曲輪としている。しかし、現在の遺構の状況から城砦址あるいは館址と判断するのは困難のように思う。
千葉県歴史の道調査報告書 14 (房総往還 1) 出版者千葉県教育委員会
参考
千葉県教育庁文化課 編. 千葉県歴史の道調査報告書 14 (房総往還 1), 千葉県教育委員会, 1990.3, 10.11501/13174729. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000039-I13174729