夢中問答集 感想 三、真の福
問。
福業に有漏・無漏の差別ありと申す。
その義如何。
夢中問答集 上 三
第三問、足利直義は福徳を招く行いには有漏・無漏の違いがあるという。どういうことか。と問います。
これに夢窓は次のように答えます。
業(行い)とは因のもとになるものである。それゆえ、業とは善悪に通じている。
善根を修めるのは福徳を得られる業因になる。漏は煩悩という意味である。
人天(人間の世界と天人の世界)の福報を求めて善を修めるのは貪欲の心を起こしてやっているのでこれを有漏の善根という。
ひとつの善を修めても世福を求めずひたすら仏道のために手向けるのは無漏の善根という。
善根に無漏・有漏の差があるのではない。もし善を修める人の心が有漏なら、その修めた善根は皆有漏の福業となる。
夢窓はさらに、有漏心、無漏心にも種々の段階がある、といって次のように仮に4種に分けて違いを説明します。
一、唯有漏心 凡夫、外道の心
二、唯無漏心 いわゆる二乗心(声聞、縁覚の境地)
三、亦有漏・亦無漏心 菩薩の境地
四、非有漏・非無漏心 仏心
凡夫、外道のみならず二乗・菩薩であっても真の無漏心とは言えない。しかし世間の福徳を求めず、小乗の涅槃も求めず、ただ無上の悟りを開くために修行するのを無漏の福業と言われている、と説きます。
そして「非華経」に次のように説いてあると転輪聖王のエピソードを紹介しています。
転輪聖王のエピソード
大昔転輪聖王という王様がいて、無諍念といった。様々な財宝と千人もの子供がいた。
その時の摂政は宝海梵士といい、その子が出家し悟りを開き、宝蔵如来といった。
聖王はこの宝蔵如来を敬い奉って、庭園の中に黄金を敷いて七宝の楼を建てて数々の飾りつけ行い様々なお供え物を並べた。その夜は仏と多くの僧の前に百千の燈火を奉げ、聖王自身も頭の上、左右の手、左右の膝の上にそれぞれ燈火をおいて夜通し如来を供養し奉った。
このように供養を3カ月続け、王子および諸小王も聖王と同じように供養を3カ月続けた。
すると宝海梵士が夢の中でこの聖王、王子たちがイノシシの顔、象の顔、または獅子、狐、狼、猿などの顔になってその体がみな血で汚れているのを見た。その中には人間の姿で小さい破れた車に乗っているものが少しだけいた。
梵士はすぐに仏に相談しに行った。
仏は
「聖王および王子たち、私を供養するものたちのなかに一人も大乗を求める気持ちがない。皆ただ梵王・帝釈・魔王・輪王・大富長者を願うものばかりである。その中に少し人天における果報を求めず、俗欲を離れるこことを願う者があるが、大乗を求めず、ただ小乗なる声聞乗を願う志に留まる。夢で見た人の姿をしたもの、動物の顔をした者たちは聖王や王子たちが人間界、あるいは餓鬼・畜生の世界で長い間生死の苦を受けている様子を現したもので、小さな破れた車に乗っているものは小乗を求めている姿である」
と答えた。
梵士はすぐに聖王のもとへ行って
「大王が先に仏を供養されたことは来世の福因になっている。禁戒を保っていることは来世人天の因縁となり、また仏法を聴聞なさることは、来世の智慧のもととなるものだ。どうして無上菩提(無上の悟りの道を求める心)を起こさないのですか」と問う。
聖王は
「無上菩提は甚深で得ることが難しい。それゆえまずは有為の果報を求めるのである」
と答えた。
梵士は
「仏の道は鮮やかです。世俗の煩悩を離れているが故に、この道は限りなく広大です。妨げがないからこの道はこのようです。よく安楽の境地に達せられるでしょう」
と言います。
これを聞いた聖王は物静かなところで一人考えて菩提心を発し得た。
また梵士は王子たちの処にも行って聖王と同じように勧めると、王子たちもみんな菩提心を発した。
その後聖王と王子たちはともに仏のもとに参って
「私はまず3カ月かかって仏および衆僧に供養をいたしました。その善根がいま無上の悟りとなって巡ってまいりました」
と申し上げた。
宝蔵如来は
「よかったな、大王。今生で永い時を過ぎて安楽世界において真の悟りを開いたのだから、阿弥陀如来と称するがよい」
と誉めておっしゃった。
また王子たちもみな授記(これから先何の仏になるのかを決めたしるし)を給わった。
その第一は観音、第二は勢至であるという。
この話から夢窓は、かの無諍王と王子たちは広大な善根を修めたと言っても、人天鬼畜の原因となるか、又は声聞小乗くらいの証果を得るはずだったのが、宝海梵士の勧めによって念ずる向きを変えたら、皆仏となるしるしを得られた。
たとえ末世であっても無諍王のように有漏心を翻して思惟観察すればどうして菩提心を発心しないことがあろうか。せめてそれまではなくても聖教量(聖者の言葉、教え)に任せて、一善根を修めて無上菩提に手向ければ、必ず広大な功徳をなすことができる。このような人を三宝(仏法僧)が護念し、諸天が保持なさるから、まだ菩提(悟り)をなせない時も、浄土に生まれたり人天に居ながら、災難を払う心が生まれなくても災難が自然と去り、福分を願う心がなくても福分が乏しくはない、ということになると説きます。
感想
ざっくりまとめると、
幸運を招く行いには煩悩あり・煩悩なしの違いがあるという。どういうこと?
よい報いを得るもとになる行い自体に煩悩がある、ないの差はない。
ただ行う人の心次第でその報いが変わる。
転輪聖王のお話だと煩悩をもって善根を行っても人間界で苦しむ。
しかし菩提心をもって祈ると煩悩をもって行った善根が巡ってきて悟りを開けた。
今は末世だけど、転輪聖王のように煩悩がある心をしっかりと考え見定めれば菩提心は起こる。
菩提心が起こらなくても聖者の言葉を信じてよい行いをして悟りを得たいと願えば広大な功徳を得られる。
まだ悟りを開いていなくても、浄土に生まれ変わったり、人間界天上界にいても願わずとも災難に遭わず幸運が訪れる。
って感じでしょうか。
今回は転輪聖王の「無上菩提は、甚深にして得ること難し」って言葉にとても同意してしまいました。
「無上菩提」、夢中問答集での頻出ワードな気がしてきましたが、簡単に言うと「最上級の悟りの境地」でしょうか。
仏教の究極ゴールがこの「無上菩提」だとしたら確かにそう簡単にその境地には至れませんよね。
でもこのお話だとなんだか宝海梵士に諭されてあっさり悟りを開いたように感じてしまいます……。ひょっとしたら菩提心を起こすまでものすごく永く考えていたのかもしれませんが。おそらく「非華経」にはこの過程がもっと詳しく描かれているのでしょう。
そしてこの転輪聖王がのちの阿弥陀如来である、という。知らなかったので驚きました。
また有漏心(煩悩のある心)は菩薩であっても持っているというのは驚きでした。それなら凡夫が持ってるのは仕方ないんじゃないかなあと。
それでも、漏(煩悩)の内容も菩薩だとまだ迷いの世界を断ち切っていないから、というレベル違いの理由でしたが。
でも二乗(阿羅漢あたりのレベル)の漏は世間の果報を求める心はないから本来は無漏だけど、悟りを求める心があるから有漏心があることになる、と。
悟りを求める心すら煩悩……。
でもまず悟りを求めるのがスタートなんですよね。
凡夫→二乗→菩薩→仏
ってレベルアップしていくっていう認識でいいんでしょうか。
右に行くほど有漏がなくなっていく。仏の道は厳しいですね……。
